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Channel: 老$の徒然草
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後楽園今昔

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老$(オイドル)の徒然草 テレビのニュースで今、小石川後楽園の紅葉が見頃、外国人の来園者も多いと言っていた。
天気が良いので何年かぶりに行ってきた。
写真では分かりづらいが、真っ赤に染まっているわけじゃない、薄汚い赤茶色、我が家のモミジと同じだった。
外国人なんて全く見かけない、居たのは、同年代の婆さんばっかり。
その場所は、今やビルの谷間の森、平成の中の江戸だ。






老$(オイドル)の徒然草 60年前この近くに住んでいた。
しかし、後楽園には一度も入ったことはない。
塀は崩れかけ、接する道路をそのまま占拠したバタヤ部落があった、開園していたかどうかも知らない。
しかし庭園の周りの様子はよく覚えている。
左の写真後方はドーム球場(左の白い屋根)と東京ドームホテル。
昔は、競輪場とローラースケート場、アイススケート場があった。
競輪がない日は、スタンドだったかバンクの下にあった卓球場がオープンした。
親爺と兄弟5人でアイススケート場と卓球場に何度か行っている。
ローラースケート場は、私より10才ぐらい上の当時の若者達の社交場だった。
アベックタイムと称して5分ぐらい照明を暗くする粋な計らいがあった。

老$(オイドル)の徒然草 もう出来て10年以上経つが、文京区役所の威容。
とても区役所らしくない、庁舎の下に地下鉄の駅があったり、最上階に360度見渡せる展望室があり、確か椿山荘がレストランを出している。
クラシックコンサートで有名な文京シビックホールが併設されている。
60年前は、この前の前の庁舎は、木造の2階建てだった。
池袋の西武デパートも木造だった。



老$(オイドル)の徒然草 後方のビルは、凸版印刷、現在はオフィス、ホール、印刷博物館。
60年前は、文字通りの印刷工場。
始業、12時、終業を知らせるサイレンが鳴り響き、時計代わりになった。
文京区は、戦前に日本の活版印刷が始まったところ。
60年前は、近所に製本屋が一杯あった。
印刷は活版印刷で出来ても、製本は、まだまだ手作業の時代。



老$(オイドル)の徒然草 中学校のすぐ隣に大学の運動部の合宿所が出来た。
目の前で柔道の練習をやっていた。
中学生から見ると、大学生というより、獰猛な動物みたいに感じた。
その後かなり経って中央大学の理工学部が出来た。
中学校は、明治時代、樋口一葉が助教を務めていた歌塾・萩の舎 があった場所。
戦前、その土地を三井家が買い、戦後、三井家から寄付された土地に中学校が作られた。
校庭の下に、三井家の防空壕があり、中に忍びこんだら何とベッドがあった。

老$(オイドル)の徒然草 老$(オイドル)の徒然草
右上の木は、小石川後楽園の有名な桜の木。
老$(オイドル)の徒然草 老$(オイドル)の徒然草

小石川後楽園の隣に、大きな中国の関連施設がある。
(同地は、戦前は満州からの来日した留学生の寮があったらしい。)
中国語を教える日中学院、美術館、ホテルその他もろもろの施設、更に中華レストランが3軒も入っている。

小石川行楽園は、水戸藩が明から招いた儒者の意見を入れて〝中国風〟に作った日本庭園だと言う。
元々、行楽園は、中国の故事〝先憂後楽〟に依ったもの。
〝民衆に先立って天下のことを憂い、民衆がみな安楽な日を送るようになって後に楽しむ〟ということで、水戸光圀が、これを政治信条とした。
幕末は、コテコテの尊王攘夷派の水戸藩が水戸から大砲を持ってきたために江戸っ子から拍手喝采を浴びた。
明治になって東京砲兵工廠が作られ、その場所が球場や遊園地になっている。


60年前も、大人達は、小石川後楽園を「水戸さま」と呼んでいた。

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