今、映画/永遠のゼロが社会現象になっているらしい。
近所で上映しているけど見ていない。
九州には、特攻隊の基地がいくつかあって、中でも鹿児島の知覧が有名。
ここは、おそらく全国にあまたある小京都と言われる中で景観日本一、武家屋敷が残っていて人が住んでいる。
その知覧には特攻隊員の遺品を収めた記念館がある。⇒知覧特攻平和館
何人かと一緒に見たが、私だけ先に出てたばこを吸って待っていた。
随分時間が経って出てきた仲間は、みんな泣いていた。
イタリアの人間魚雷と日本の回天(右)
靖国神社の遊就館の入り口に、誕生日の新聞の自販機があった。
自分の誕生日を入力すると、その日に発行された新聞が出てくる。
そこに驚くべき記事、イタリア海軍の人間魚雷について書いてある。
確か、遊就館の中にも人間魚雷回天の実物を展示している。
イタリアと日本の決定的違いは、イタリアは、爆弾を搭載した船首部と操縦席が分離出来る、それに対して日本のは、自爆テロ型。
日独伊の軍事同盟があったのに、さっさと戦争から手を引くわけだと思った。
去年の所沢は、アメリカから里帰りした、今でも飛べるゼロ戦を見ようと全国からゼロ戦ファンが押し寄せ、所沢在住の宮崎 駿監督の映画「風立ちぬ」が公開されてそれも見たから、もうゼロ戦はいいやという気分。
ゼロ戦は、私が生まれた1940年/皇紀2600年にちなんでレイ戦と名付けられ、後に零が英語のゼロに変った。
皇紀2600年は、戦争に備えて生めよ増やせよのピークの年、私の両親もその国策に協力した。
私は、横浜で生まれたが東京にも出品されて、二カ所で赤ちゃんコンクールの健康優良児に認定された。
今から思えばゼロ戦は、燃料タンクの防爆不備の人命軽視、特に特攻隊などという殆ど戦果をあげられなかった戦闘機の運用も無謀だった。
所沢に日本で最初の飛行場が作られ、最初に飛んだ飛行機がフランスから購入したアンリファルマン機。
機体が木製、翼が布で出来た複葉機だった。
それから僅か10か月後には同じものを作り、ゼロ戦が完成する1940年まで、日本の航空機は、大きく飛躍した。
しかしB29のような戦略爆撃機やレーダー、ドイツのV1/V2のようなロケットは作れなかった。
当時は、国民みんなが、ゼロ戦と戦艦大和で戦争に勝てると信じていた。
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